資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界

「資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界」(佐々木実著/講談社)を年末正月を使って読み終えた。
600ページを超える長い分量なのだが、案外読みやすかった。
まあ、これは私が経済学部卒なので、普通の人よりは経済学史を多少なりとも知っているからかもしれず、
時代時代の経済学理論が要所要所で展開されるので、そんなことに興味を持てない一般の人が、飛ばし読みに
なるのは仕方ないかもしれないが、随所に人間臭いエピソードが出てくるのでまた読み直せる。
(しかし、私にとっては一切数式が出てこないが、それゆえにか簡潔な経済学理論はかなり分かりやすかった)

K・アロー、R・ソロー、G・アカロフ、J・スティグリッツといったノーベル経済学賞受賞者から、
三里塚闘争の農民まで宇沢氏が関わった多くの人にインタビューし、膨大な資料を調査して生まれた本作は、
私が今まで宇沢氏自身の著作を何冊か読んではみたが、どうしても見えなかった部分が随分くっきり浮かび上がってきた印象だった。

この本は、経済学史でもあるし、世界の経済政策の論争史でもある。
経済学を学ぶすべての学生におすすめの本である。
以下、書評っぽく書いてみる。。

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M・フリードマンがシカゴ学派という経済学の一派を率い、
ケインズ主義者と立場を異にする「マネタリスト」と呼ばれていることは知っていたが、
細かく知らなかったのが、その発生と推移について詳しく知ることができた。
シカゴ学派は今でこそ、市場原理主義の源流のように言われているが、
1960年代始めは決して多くの支持をシカゴ大学内で得ていたわけではないという。
フリードマンはケネディ死後に行われた大統領選挙で、共和党の大統領候補の、
バリー・ゴールドウォーターの経済顧問に就任したのだが、
ベトナム戦争で水素爆弾を使うべきだと主張するゴールドウォーターに、
「過激すぎる」と言われていたのだというほどフリードマンは極右思想の持主だった。
のちにフリードマンはニクソン大統領のアドバイザーもつとめたが、
1964年の大統領選挙でゴールドウォーターを支援したドナルド・レーガンが、
1980年の選挙で勝利するにあたって、フリードマンの活動は大きく実を結んだわけである。
フリードマンは「経済理論家」というより、途中からは「イデオローグ」に転身したのである。
この他にも様々な手法を凝らしてフリードマンは、自分の反対勢力を大学から追い出し、
国境を越えてマネタリズムを広めていくのだが、経済学という学問が純粋にアカデミズムの問題ではなく、
政治が絡んだものであることを読後思い知らされた。

宇沢氏はマカーシズムとそれに続く「赤狩り」、
ベトナム反戦運動で大学が騒然とする中、
徐々にリベラリズム派が追い詰められていく現状に嫌気がさしていき、
収入が激減するにも関わらず日本帰国となった後は、
私有されていない公共財である「社会的共通資本」の価値を経済学の手法で明らかにすることに力を注ぎ、
水俣病や成田空港反対運動にも積極手に関わったのも、
数学者として輝かしい前途が約束されていたにも関わらず、
数学のような高尚な学問ではなく、戦争で荒廃してしまった社会の病を癒そうとして、
25歳という遅い年齢で経済学を学び始めた過去と同様の、
求道的精神によるものだろう。

そんな宇沢氏にとって、サブプライムローン問題、リーマンショックなど、
金融界と癒着し、高額な報酬を経済学者が受け取って、金融界の都合のいい発言を行っていたことは、
大変な怒りを覚えることだったという。
私は、宇沢氏が民主党が政権獲得を視野に入れたシンクタンクの理事長を務めていたことを今回初めて知った。
しかし、政権獲得が間近に迫ると、そこから追い出されるような形となった。
鳩山内閣では普天間基地移設を「最低でも県外」といいつつ、
迷走を重ねて辺野古への移設を容認するはめになったが、
この時も宇沢氏の憤りは大変なもので、内閣府に反対声明文を持って出向き、
役人に激しく抗議をしていたという。
政権交代は世界情勢の大きな変化に対応できる大きなチャンスだっただけに、
民主党がもう少し先を見越したビジョンや戦略、信念を貫き通す矜持があったらと残念でならない。

前農林水産大臣の山田正彦氏を会長とする「TPPを慎重に考える会」の代表世話人を
宇沢氏が引き受けたことも今回初めて知った。
社会的共通資本を利潤追求に対象へと改変していこうとするTPPはすべての参加国の
社会的安定性を抜本的に損なうものだとして些細な考え方の差異を乗り越えて、
国民的反対運動を盛り上げなければならないと、
まさに体に鞭打ってTPP反対運動を推し進めていたそうである。
市場原理主義が世界席捲し、日本を食い物にしようとする様は、
若き日に思い描いた理想と真逆なものであったろうから、
死んでも死に切れぬ想いにかられていただろう。

経済学者で元ブントの指導者であった青木昌彦氏は
「いい意味で個人主義者で、情熱家ではあるが、オルガナイザーではない」
と宇沢氏を評していた。
浩子夫人は、日本へ帰国してから宇沢氏がどう変わったかと問いに
「宇沢は、ひとりぼっちでした」
と答えたという。
天才ゆえに理解者は少なく、かといって組織に埋没して群れたり徒党を組むことは良しとしなかったのだ。
でも、その姿は寂しさよりも清々しさを私などは感じてしまった読後感だった。