9/7(土)の午前中はこのツアー3社目の、株式会社 富士メガネの本店のある札幌へ。
従業員571名抱え店舗集数が67店と、安売りメガネ店ではない北海道地盤の店ということで、大変大規模な会社だ。
約1時間会長の金井昭雄氏がお話してくれた。
通常このクラスの会社だと総務部長あたりが仕切って、最高責任者は挨拶くらいだったりするのだが、
わざわざ時間をとっていただきありがたいことだった。
手元この時いただいた会社の創立80周年と海外難民協力支援活動35周年の本がある。
写真のような立派な装丁の豪華な本なのだが、重いと荷物になるからと送料を負担していただいて送っていただいた。
気遣いの細やかさには感謝の言葉しかない。
この本を読みながら、あの富士メガネの社屋での会長の講話の記憶をたどりつつ、書き綴ってみる。
1.1939年10月18日「富士眼鏡商会」は現在の会長の父、金井武雄氏によって
樺太・豊原市(現在のユジノサハリンスク)で創業した。
社業は順調であったが、日本の全面降伏後の8月16日、会長の母親コヨさんの素早い判断で、
引き揚げ船に乗り込み、ソ連軍の抑留を免れた。
その後、戦争中統制経済化におかれた樺太でメガネを組合に買い取ってもらって得た資金があったので、
1946年、札幌の狸小路に店舗を構えることができた。
富士メガネの特徴は強い学究精神にあるが、創業者の武雄氏も創業1年ほどなくして、
わざわざ本州の勉強会に参加し多くの技術・知識を学んだことからもその萌芽がみられる。
初期には支店を出すための資金は十分蓄え可能であったにも関わらず、
店舗機能やサービスの充実以外にも、海外視察や研修、先端機器の購入に力を注いだ。
そしてようやく1967年に支店第一号を出す同時に現会長の昭雄氏に、
まだ日本には体系的にオプトメトリーの理論を実践できる学位を持つものがいないため、
「アメリカへ行って勉強してこい」と留学させた。
(オプトメトリーとは、視力についての専門分野。光学をはじめ生理学、解剖学、心理学など幅広い分野をもとにした学問です。
「キクチ眼鏡専門学校」ホームページより)
そして、武雄氏が1940年に新潟で受講した勉強会で講師のアメリカ人オプトメリストから教わったメガネに関する認識、
「メガネはあらゆる人に必要」、
これは「メガネを必要としている人にどのように売るか」という考え方とは、メガネそのものが持つ価値(力)と
マーケットのとらえ方が全く異なる。
その道を真摯に追求した会社だからこそ、到達しえた地点であり現在の繁栄の理由だろうと思う。
2.富士メガネを世間で有名にしたのは、世界各国で行っている海外難民視力支援活動だ。
これは昭雄氏がアメリカ留学中に貧しい暮らしをしているアメリカ先住民の居住地へ赴き、
最適なメガネを手渡すボランティアに関わりアメリカ社会に通底する「Give Backの精神」に感銘したことや、
終戦直後に樺太から大急ぎで日本へ逃げ出した理不尽とも思える過去と自身を重ね合わせているからだそうだが、
私自身はこれまでボランティア行為そのものは立派なことと思いつつもあまり実感がわかなかった。
しかし、多くの社員がこのボランティアに参加することで、日本では当たり前のものがない状況に衝撃を受け、
創意工夫に迫られ、あるいは感謝の笑顔と涙に感動し、自身の仕事の誇りと使命感を再認識したと聞くに及び、
認識を改めた。
これほど実のある実践的な社員教育の方法があるだろうか。
1983年に始まったこの試みは、東南アジアやアルメニアなどに多くの国にまたがって、現在も絶えることなく続いている。
1992年に日本ではバブルがはじけ、金余りによって始まったお題目ばかりの社会貢献活動は、
霧散霧消してしまったが、富士メガネの取り組みはその歩みを止めることはなかった。
3.「経営の神様」松下幸之助は1965年にの富士メガネに来店し「世界一のメガネ屋さん」といった。
東京でもなく歴史のある関西からでもない日本の中では短い歴史しかない札幌の地の当時は一店舗のお店がである。
高い志と絶えまぬ努力があれば、道は開けるのだ。
少なくともその可能性はある。
そんな明るい希望が多くの参加者の胸に去来したのではないか。
会長がわざわざ土曜日に時間を作って、このような場を設けてくれたのは、このツアーの目的を理解し、
日本に少しでも多くの「いい会社」を作るためにと力を貸そうという思いからではないかと思う。
金井会長と富士メガネのスタッフの皆さん、本当にありがとうございました。