「万物の黎明 人類史を根本からくつがえす」(デヴィッド・ゲレーバー、デヴィッド・ウェングロウ著/酒井隆史訳)を最近読み終えた。600ページを超える分量と翻訳独特の言い回しの難しさに中々ページが進まなかったが、何とか読了した。私の疑問・・「決めごとはなるべく作らない、性善説に基づいたきわめてファジーなやり方」が従業員600人を超える規模の会社でなぜ可能なのか。歴史の前提を覆す著作の内容に基づいて伊那食品工業の経営のあり方を考察してみた。
サブタイトルが「人類史を根本からくつがえす」というのが凄いが、具体的にはこれまでのわかりやすい物語として「人類はある時期を境にして狩猟採集生活から農耕を主とした定住生活へと移行し、人口が増え、国家や都市が生まれ、法律や軍隊も生まれて不自由や不平等が生まれた」とする歴史が通説だった。しかし、実際には狩猟採集民は穀物や野菜の栽培や収穫の方法を理解しながらも農耕に完全にシフトせず、数千年に渡って農耕と狩猟採集生活を共存させてきた例を多くあげている。いくつかの都市では、数千から1万の人口いても、生活・物流上の課題を集権的な統制や管理、トップダウンからの指示や共同体の集会を必要とせず、相互扶助システムによって解決したようだということだ。(身近な日本の例では狩猟採集型の集落にしては大規模な三内丸山遺跡を思い浮かべてもらえばいいだろう)
また、ある例では1648年カナダのケベック州で違法アルコール船の入港をきっかけに知事は現地人を説得してアルコール飲料の禁止に同意させ罰則を記した勅令を発したが、これは現地人にとっては画期的な出来事であったとされた。未開人にとって自ら何事かを厳格に禁ずるということを知らなかったし、なぜ、それで社会が維持できていたのかと言えば、もし、強制が許されないのであれば、社会的まとまりは理に適った議論や説得力のある議論、社会的コンセンサスの確立によってつくりだされねばならないのだ。そして未開人とされる彼らの会話能力は知性においてヨーロッパ人にひけをとることはないと、イエズス会の関係者は述べていたということだ。
経営者やコンサルタントは、事業が拡大するにつれ、慣習や決まりごとは成文化され制度は精緻に組み立てられねばならないと言い、一般的にはそれが正しいとされている。時には階層化し硬直した組織に風通しをよくするための改革が提唱されることがあるが、基本はこの文章の前半で述べたとおりだ。
しかし、伊那食品工業の場合は、従業員はパートタイマーを含めて600人を超え、売り上げは年商200億円以上ととても個人商店のレベルとは言い難いが、それでも緩やかな制度や仕組みで成り立っていて、事業業績も順調に推移している。
では、規模の大小に関わらず企業にとって大切なものは、バグジーの久保社長が言うところの「良い企業風土」であり、これが少し漠然として分かりにくいのであれば、この本の中で述べられている決して大規模国家とならなかったアンデスのアイリッシュ連合やバスクの村落が示しているような特性「相互扶助、社会的協働、市民的活動、歓待、あるいはたんに他者へのケアリング」がその企業内で共有されているかどうかだろう。
しかし、つくづく先代の塚越寛会長の時代を超えた慧眼、高度成長期にも日本型経営の「滅私奉公」ではないあくまで家族のように社員を遇するやり方、バブル崩壊後の成果主義的手法にも屈せずあくまで年功序列を貫き、そして今「もはや右肩上がりの時代は終わった」とばかりに低収入や自己負担の増加をやむ無しという風潮にも社員の定期昇給と賞与支給を止めない姿勢、素晴らしいとしかいいようがない。
今回の伊那食品工業のベンチマーク後、「万物の黎明 人類史を根本からくつがえす」を読み終えて少しだけ2年来のモヤモヤ感が解消できたような気がした。しかし、多くの人に説明するには普遍的な言葉になっていない。まだまだ、勉強が必要だろう。