やはり徳武産業は人本経営の聖地だった

今回の最後のベンチマーク先は、香川県のさぬき市の徳武産業株式会社。
介護用シューズ「あゆみ」のメーカーで、利用者から感謝される多くの感動のエピソードは知る人ぞ知る。
私は過去2回ベンチマークで訪れていて今回3回目である。
何年か前、十河社長が会長になり現在は娘さんが跡を継いで社長になっているということで、会社は変化しているのかどうかそのあたりが大いに興味があった。
知らない方のために簡単に十河会長と徳武産業株式会社のことを紹介しておく。
若い頃銀行マンであった十河会長は、妻の義父に請われて転職し、徳武産業の跡を継ぐこととなった。
学童用シューズの下請け生産や旅行用スリッパなど作っていたが、時勢の流れで芳しくなくなり、新たな分野として介護用シューズの生産に乗り出す。
最初は中々売れず苦労したが、現在は介護用シューズの分野で55パーセントのシェアを持つトップ企業である。
坂本光司先生の著書「日本でいちばんたいせつにしたい会社3」にも取り上げられ、お客様への家族のように寄り添う姿勢とそのことに感謝するお客様からの感謝の手紙が読者の共感を呼んだ。
今回の訪問で新たに感じたこと。
ドイツの整形外科靴マイスターを定期的に招いて指導を受けているそうで、日本は元々草履や下駄を使用して、靴を履く文化がなかったので靴や足に対する理解が欧州などに比べるとまだまだ足りないのだという。
今まで歩けなかった老人たちが歩くことができるようになったのは、靴に注ぐ愛情もあるが靴や歩行に関する勉強の深化が徳武産業にあるのではないか。
それから十河会長は私と同じ農家の長男だったとは今回訪問記念にいただいた「神様がくれたピンクの靴」(佐藤和夫著)で知った。
といっても家は貧しかったので、学校でも部活動などできず早く帰宅して家の手伝いなどに明け暮れ、大学進学も諦め銀行に就職したという。
恵まれた甘ちゃんの私とは全く違う環境に生まれ育ったのである。
落ち着いた風貌は苦労してきた人らしいし、何より弱者の心の理解を深めるのに過去の艱難辛苦が役立っていると思える。
それと十河会長も最初から完璧な人格であったわけではなく、失敗を繰り返しながらの今があるということ。
先代社長が死んだあと、古参社員や義母との仲が悪くなり、そのときの思いのたけを住職に話したところ、「先代と張り合おうなどと思わずに先代に感謝と反省をしなさい」
と言われ、先代を意識するあまり必要以上に古いやり方を否定してきたのではないかと気付き、まずは毎朝仏壇に座って先代を供養することからはじめたところ、次第に関係が良くなっていたとのことだ。
他にも十河社長とヒロ子夫人が「あゆみ」の開発に没頭していた2年間、事業を任せていたのは3名の若手社員だった。
事業はOEMが中心だったので彼らでも回していけるとふんでいたのだが、いざ決算となると創業以来初めての赤字、
十河会長は彼らを厳しく叱責した。
赤字に転落した社員のモチベーションは下がる一方で、事業を任せていた3人も会社を去っていった。
「自分自身の経営者としての自覚不足と、見通しの甘さで、社員たちの人生を狂わせてしまった・・・」
このときのことは、今でも深い悔恨として十河会長の心の中に残っているという。
「会社は地域にとって迷惑な存在」
という十河会長の言葉にもはっとさせられた。
企業は納税や雇用の面で随分地域に貢献していると経営者は思っていそうだが、近所の人たちはそのあたりは見えない、
むしろ朝夕社員が出勤するたびに排気ガスをまき散らし、昼間は運送用トラックが出入りして学童たちは危険にさらされている。
そこで地域の水路の清掃をやり、小学生が帰り道に会社の敷地に入ってトイレも利用できるようにした。
そのかいあってか、地元の農家から土地を手放すのなら、徳武産業に売りたいとの申し出が相次ぎ、以前250坪だった会社の敷地が現在は3,600坪にまで広がったという。
眼鏡の若者の絵は、童話作家の本田圭吾さんの自画像、
筋ジストロフィーの難病患者だが童話作家でもある。
小学校の時以来、靴を履いたことがなかったそうで、徳武産業を訪問して初めて特注で靴を作ったところ、
履くことができた感謝のお礼の自画像だそうで、これも感動する話だった。
会社の以前と異なる外見的な変化は、とにかく敷地が広がったこと。
直営ショップや社員が休息できる「あゆみ公園」ができていたりと新しいものが次々と建っていた。
十河会長も以前は以前は口が重い印象があったが、笑顔が多かった。
事業が順調に行っている証拠ではないか。
ただ、お子さんの社長はどんな方なのか今回は会えず残念だったが、会長が健在な間は何の問題もないだろうな、と思った。
心が浄化されたような、気分がいい、今回のベンチマークツアーの最後を飾るにふさわしい徳武産業訪問だった。